木に似た良い人生を

面倒臭い人の話。

 

どこにあるか分からない情報は、無価値である。

どこかに札束が埋まっている広大な砂漠もまた、無価値である。当然の話だ。

しかし、その事実は、今自分がバベルの図書館から掘り当ててしまったシェイクスピアの価値を毀損しない。

それもまた、当然の話だ。

 ゴミの山から覗く傑物、好ましからぬ人間群から生まれ出た面白き人、捻くれた観測のまっすぐな帰結。私がそんな面倒臭いモノたちを愛しているのは、果たして私自身もそれらの一員であるからなのか。

 ともかく、私はゴミの山を漁っていた。そう、𝔜𝔬𝔲𝔱𝔲𝔟𝔢 𝔖𝔥𝔬𝔯𝔱𝔰である。勿論、ここでのShortsというのは女性用下着ではなく、ショート動画を示している。パンティとショート動画は異なる対象であって、それは以下から簡単に従う:
(証明)

ショート動画を上にスワイプする時、人は受動的だが、

おパンツをずり下げる時、人は能動的である。

(証明終わり)

その日私がゴミの山から拾い上げたのは、実写版カルテットの第1話(の無断転載)であった。内容については、仔細は省くが、

4人が卓を囲んで唐揚げを食べている。Aは勝手に大皿に添えられたレモンを唐揚げ全体にかける。B,Cはそれを咎める。Aが「レモン、かけますか?」と聞けばよかったのか?と尋ね、Bはそれは押しつけがましい、レモンをかけて当然だ、という雰囲気が生まれると述べる。(作中では、脅迫だ、防戦一方だ、という表現が為されていた)彼が提示する理想的な尋ね方は、「レモン、ありますよ」であった。Dは一連の話を「訳が分からない」として馬鹿にして笑っている。

 全体に、「『面倒くさい』人たちの冗談めかしたテンポの良い会話」というトーンが付与されていることを補足しておきたい(あまり能動的に深く考えるような対象ではないことは理解している)。

 発言には何かしらの意図が随う。正確には、発言は何かしらの意図が随うものとして解釈されるのが自然である。問題文が、講義ノートの数式が、自分の描いた答案が、ゲームの棋譜が、連続的な意図の糸であるのが愛おしいなら、日常会話においてもそうあってほしいと感じるのは不自然ではない(○○は自然だ、○○は不自然ではない、はお前の口癖ではないか、とよき人に指摘された。悪いオタクなので否定から入ったが、正しい気もしてきた)。これは勿論、何の意味もない発言を冗談として「裏拍に」挟むことを否定するものではない。寧ろそれが冗談として成立するためには意味があることが期待されている必要がある。

 「レモン、かけますか?」というのは相手の意思の確認だ。会話において発生することは極めて自然だし、その質問自体が発言の意図の説明になっている。リテラルに読めば、質問者がレモンをかけたいかどうかは明らかではない。一方、「レモン、ありますよ」というのは単なる事実である。そこに込められた意図としてあり得るのは次の二つのように思う:

1.)相手がレモンを認知していることを確認する

2.)自分がレモンをかけたいという気持ちを抱いていて、それを婉曲に表現している

元々の会話の内容から、1.の意図での発言は俎上にない(ちなみにレモンも俎上にない。俎板でスライスした後大皿に移してあるからである(裏拍))。

 とすれば、「レモン、ありますよ」というのは私はレモンをかけたいです、の遠回りであって、「レモンがそこにある⇒かけるのが自然ですよね、まぁ強制はしませんけど」というやり口ではなかろうか?それはレモンをかけたい、という欲を表明するのに、レモンがある、という事実に頼り、相手と正対した「欲の鍔迫り合い」からオリるやり口で、畢竟、卑怯だ、受動的だ、ヤラシイ(もちろんショーツの方がヤラシイだろう(ここではショート動画の事ではない(裏拍)))、と言いたいのだ(私はこういう手口を意識的及び無意識的に使うシーンがあるので、自戒でもある)。

 我々が婉曲表現を用いるとき、そこで行うことは殆ど、欲か死からの「方違え」である(唐揚げにレモンをかけたいというのは、「良いモノを食いたい」という食の欲そのものだ)。欲は我々の生への衝動そのものであるから、婉曲性とは我々の生物性を覆い隠すためにあると言っても良い。確かに、脱臭は重要だ。極度の空腹時、カネをせびる時、身体に誘われる時、突如見える相手の動物としての本能。或いは、誰かの死を語る時、突如意識される相手の命の期限。そうした瞬間に抱く索漠とした

「目の前に居るコレは、欲という動機付けに従った生命維持のためのプログラムで、その有限の稼働期間を終えれば死を迎えるのだ」

 という実感は、しばしば心地良いものではない。

それはAIとの話が弾む最中に現れる「無料利用上限を超えました」のメッセージだ。

それはレンタル彼女とのデートが終わった後に訪れる支払いの時間だ。

それは体温で滑らかに満たされた夢の終わりを告げる、目覚ましのアラームだ。

それでも、生きているという事実そのものを薄めようとするのはヤラシくないか?不誠実ではないか?「レモン、ありますよ」と同じ、命の鍔迫り合いからオリるヤラシさを感じはしないか。少なくとも、私の好みではない。私はカネを稼いで、メシを食って、オンナを抱いて、最後はくたばるのだ(第三項の実現性は保証しないが、実現するなら能動的におパンツをずり下げる過程が含まれることは保証される(裏拍))。それを意識しないでおこうとは思わない。

夢に漬かり続ける時、寝続ける時、人は死んでいる。それでも夢を見なければ、我々は共感性あるHuman being として死ぬのだと思う。積極的に死にながら消極的に生きるために、"want"は"would like" に、「死ぬ」は「はかなくなる」に換言されたのだろう。「面倒臭い人」の話から始まった、面倒臭い「人の話」だ。 

 名誉のために言及しておくと、レンタル彼女を利用したことは無い。メンタル案の定変なる彼女については見たことも聞いたこともない(裏拍)。実在を疑う(表拍)。

 木の年輪は、自己の拡大というあまりにわかりやすい生の欲求を、満遍なく、歪に、節くれだって、でも能動的に1年ずつその身に刻んでいる。

I would like a wood-like good life.

つくづく、生の結実した、木に似た良い人生を送りたいものだと思います。そうすればきっと、ゴミの山から頭が覗くから。

 

 

 

ちなみに、先述「カルテット」切り抜き視聴時の率直な感想は

「うっへ!お前ベッドでも『チンポ、ありますよ、、、(吐息)』とかやんのかよ!キッショ!!!」でした。こうして最後に2700文字を台無しにしてみると、なるほど生を包み隠すことも時には大事ですね。少年よ、大志を抱け。青年よ、チンポをしまえ。

愛へ、意中

 お肉を食べたら野菜も食べる。好を吐くなら嫌も吐くべし。あ、今日まだ好きな言葉語ってないじゃん。

 好きな言葉は「瑞穂」です((自認(そもそもイケメンというのがほとんどの場合自認である(イケメンがイケてるツラ(面)を由来に持つ(このこと自体の真偽は諸説ある)ことが意識されているならば、視覚と聴覚のあまりにミスマッチな言葉だ)))イケメンボイス(ボイスはヴォイス、と表記しない(スマホは出た当初スマフォという略称が一瞬出現し(これに関してはスマートホンと表記しないことを踏まえれば王道を歩んでいるのはスマフォである(ではスマホは覇道を行っているのかというと、カタカナ三文字の直方体(勿論デザイン上完璧(璧は直方体ではなくトーラスである)な直方体で無いことは問題にしていない)に「覇道」という言葉は重苦しすぎる))、泡沫(泡沫という言葉は絶対に「うたかた」と読んだ方が格好いい(勿論泡沫政党というときには「ほうまつ」と読むことを念頭に置いている))のように消えてしまった))(ノルマ)(括弧の結合が正しく行われていることに頼り切った文章(言語が一次元的な構造を持っている以上しょうがない(勿論それが劣ったことだとは思っていない))))。カッコ付けました、本当は「一意存在性」とかですヨ!

 よし、あとは気にくわない言葉の陽口(陰口の対義語)を言ってよし。自分でバランスとらないとね、女の子が体形維持するのって大変なんだから!ちなみに、言葉の陰口を叩くのは大変難しい。○○という言葉が気に入らない、と言った時点で、既にその言葉はその場に引っ張り出されてしまっているからである。

 全てにおいてあり得ない言葉、防犯対策。或いは防寒対策。

 試験対策は「対策 against 試験」であって、「対策 against 人手の不足」が人手不足対策なのであって、「誰かが肥満体型だなと思ったらすぐに講じる対策」が人デブ即対策である。当然、定義をリテラルに解釈するなら防犯対策を講じるのは犯罪者。ありえへん。最も腹立たしいことは、「防犯」までで止めておけば何の問題もなく運用されるところである。これはもう現代版「蛇足」、数年後には

「カレーの隠し味にチョコ1枚入れたよ」

「うわぁー、防犯対策やなぁ~~」

という会話が展開されていることを確信するものである。ボウタイと略すと余りに蝶ネクタイであるから、略称はボハタクなのは言うまでもない。ちなみに、足の生えた蛇は瞬足を履いている。理由は勿論コーナーで差をつけたいからだ。

うまい棒

自信過剰。

黒棒

見れば分かる。

エクレア

「ブラックサンダーとかいう駄菓子?(ダガシ、響きからしてダサッ!笑)も同じ『稲妻』モチーフのお菓子らしいんすよね~爆笑」みたいな、ブスと2shotを撮って引き立て役にしたがるやたらと眼がデカい女子高校生みたいな醜悪さを感じる。

稲妻

浜(はま)+栗(くり)→蛤(はまぐり)。

店(みせ)+仕舞(しまい)→店仕舞(みせじまい)。

稲(いな)+妻(つま)→稲妻(いなずま)!?

どう考えてもいなづま表記が正当性を持っている。いなづまと書いたら小学校の教員から朱書きが入った。未だに根に持っているエピソードを一つ挙げよと言われたらこれを選ぶ。紫電一閃、私怨一選である。しかしイナヅマ表記の正当性を強弁するにはイナズマイレブンが余りにも強すぎる(こちらは一人、相手は十一人であることを考慮する必要がある)。

根に持つ

P(x)=x^2-2=0はx=√2を根(コン)に持つが、別にP(x)が√2を恨んでいるわけではない。

勿論、私は小学校の教員エピを根に持っているが、これは教員エピが私の零点であることを意味しない(勿論、私が彼女に点数をつけるなら0点である)。

小学校の教員

 

○○でしぬ

勝手に死ね

メロい

アホか

シンガーソングライター

名前の響きが明らかにグー/チョキ/パー、心/技/体、守/破/離の類なのに、実際はシンガー/ソングライターなので、仕事量を50%も誇大広告していることになる。恥ずかしいとは思わんのか?

パラドックス

・直感に反する事実(例:急がば回れ、満場一致のパラドックス、バナッハ=タルスキーのパラドックス)

・特定の条件下で真と偽が同時に成立するように見える現象(親殺しのパラドックス、嘘つきのパラドックス、ラッセルのパラドックス)

を一つの呼び名に纏めるのはマズくないか?

・・・ー犬ー犬ー犬-犬ー・・・←あ、これはポリドッグス

n shot

n=1: one shot←一撃必殺、強すぎる カッコイイ

n=2: two shot←急に写真の話?1が好評だったのに2で方向転換しようとして駄作になる、防犯対策の好例

n=3: スリーショット←頭痛薬

n≥4:普段使う言葉に存在しない

この言葉のタチの悪いところは、悪口を言うと必然的に「(4以上の整数)shot」の無数の悪口をいう事になるため、好きな言葉と嫌いな言葉をバランスよく語ることが不可能になる点である。

18金

エロを期待するからやめていただきたい。

世界観

「観」が世界を構成するので、順序が逆なのでは?

北方領土

歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の四島にホッポーリョード、というラベルが与えられているだけで、「真に我々がロシアから取り戻すべき北方にある日本国固有の領土」という認識が失われている。

障がい者

漢字で書け

カラット

ダイヤモンドか唐揚げにしか使わん
(カラッと揚がった唐揚げ、というと「体にピース、カルピス」を狙っているような構図になるのが癪である)

まとめ

ネット記事は大体の場合前置き(ほぼ広告)が4割あって、「まとめ」がほぼ本文と同じ内容なので、実質3割程度の内容しかない。「まとめ」と出てきた時点で、「ああ、何も得られないまま記事が終わってしまったんだな」という気持ちになる。しかも、ここでこうやって「まとめ」の悪口を言うだけなのに、見出しが「まとめ」だったことで、きっと読者は「お、まとまりのない話がまとまるんだな」と期待してしまった。ごめんね、君を裏切るつもりはなかったんだ。私は出来る限り君に誠実でありたいと思っているんだよ。

誠実さ

きっともう大半は涸れてしまった。でも、多くを語るのは防犯対策かもしれない。

 

 長蛇の悪口はいくらでも構造上延長するが、言いたいことばかりを言っているとそのうち矛盾して藪蛇になるので、そろそろ切り上げたいと思う。蛇は素早いのだ。何故か?勿論、瞬足を履いてコーナーで差をつけるからである。

 

好きと嫌いは紙一重だ。

意中へ、愛。は きっとI love you.の意味だが、

愛へ、意中。は あいへ、いちゅう、、、、

 

I hate you!

 

安倍のせいめいは安倍せいめい

 自明な話。

 公立の小学校の教員が、一人称に「センセー」を使うことが嫌いだった。それは単に彼らが私より知的に劣っていたから「先生」に不適格だと感じていただけでなく(その気持ちが私にあったことは否定しない、私は嫌なガキなのだ)、彼らが「先生」という言葉そのものに敬意を払っていないと感じたからだ。同級生に共感されることはなかった。彼らは記号として、上の学年の生徒の名前にセンパイとつけるのと同じように、教員という立場にあるものにはセンセーをつけるのだ、という認識なのだと思う(敢えて過去形では語らないことにする)。

 大学に入学し、やる気スイッチグループ様に雇って頂き個別指導を受け持つことになった。といってもメインターゲットは消極的個別指導、つまり、学校の授業について行けない子供たちで、私は新人研修で一人称として「センセー」を用いることを推奨された。2か月でやめた。ものを教えるということ、それでカネを貰うということに敬意が払われていなかった。

 敬意、敬意、敬意とはなんだ?何故「先生」という言葉は敬意を含む?先に生まれたと書いて先生。人を呼ぶときに、「先に生まれた」?なんと変な呼び方か。不思議だ。でも、言葉というのは必要十分に洗練されているべきだ。

 私は、「先生」という言葉に払われるべき敬意を「背中を追いたくなる気持ち」だと定義したい(ベタな定義かもしれないが、私は納得してこの定義を採用してしまったのだ、頑張って逆張る必要もなかろう)。あの人は自分よりも優れていて、しかも自分はそこに追いつきたい。それはあの人になりたい⇔羨望とは断じて異なるものだ。目指すべき場所、あるべき姿、そこに至る方法、それを提示する人に払われるのが敬意なのではないか?そして、そうした敬意を払う対象={両親、中高の恩師、etc...}を想起して見れば、なんということはない、皆私より先に生まれているではないか。それは、ある種当たり前といえば当たり前かもしれない。私が彼らの背中を見ていられることの前提に、彼らが先に生まれ、先に歩き始めたことがあるのは何とも自然なことだからだ。

 そんな風に、或いは心ある子供なら中学生には遅くとも体得しているであろう「先生」という言葉を、がっちりとした文章にしてみると、視界の端にちら、ちら、と映る単純な事実から目を背けられなくなる。

 

 「先に生まれた」というのは、「先に死ぬ」ということだ。

 当たり前のことだ。当たり前のことなのだ。しかし、想像できるだろうか?

 

 自分が見ていた背中が、ある日すっと消えてしまう。もう触れなくなってしまう。二度と話せなくなってしまう。私に笑いかけてくれなくなってしまう。人道を外れても叱ってはくれなくなってしまう。沿っても褒めてはくれなくなってしまう。怒っても、泣いても、冗談を言っても何をしても、もう届かなくなってしまう。ぴくりとも動かない、モノになってしまう。いのちが無くなってしまう。消えてしまう。失われてしまう。それが、ずっと受け入れられないほどに悲しい。そんな死に向かって、今も一歩一歩自分も含めすべての生きとし生けるものたちが歩みを進めていることが、どうしようもなく悲しい。命が有限であることが悲しい。機会が有限であることが悲しい。

 私は今の自分の姿かたち、在り様、人格にある程度満足している。生を受けてから今までの端点を含めた区間の中で、関わった全ての、今の自分を作った「先生」たちを愛している。そんな彼らの顔を、あと何回見られる?そこに不可視のカウンターが存在していることを、いつも、いつも、思い出しては、悲しんでいる。両親と食卓を囲むとき、思い出して、泣きそうになる。母校を訪れるとき、思い出して、泣きそうになる。

 そうして前を見る悲しさに耐えかねて、ふと目を逸らして後ろを見てみれば、そこにもいのちはあるのだ。将来私は誰かの「先生」になるのだ。後輩が出来ることもあろう。生徒ができることもあろう。子を生すこともあろう。私は彼らに同じ思いをさせるのだ。それも悲しい(或いは、彼らはそもそも死について深く考えないかもしれない。それは更に悲しいことだと思う)。

 生を受け入れることによって、私はある程度大人になった。それは、「I am alive」という単なる文字列そのものではなく、限りある生命を持つものとしてのある種の誠実さを手に入れねばならないということを受け入れたという意味だ。これからも私はいのちが嫌いになることはないだろうし、いのちへの愛を口にし続けるだろう。生命への愛は、きっと私の人生を通してのテーマになる。きっと、それと同じように、死を受け入れるのは私の世界をより円熟したものにするために必要なことだ。でも、今の私には受け入れられない。死は、こわい。愛する誰かの死が、こわくてたまらない。どれだけ生を愛しても、随伴する死をも愛することは、今の私にはできないようだ。愛する人も、愛することも、愛せる部分しか愛さないような小さい男なのだと思う。かたはなるありさまだ。

 

 私の前を歩く先生たちへ。私は、あなたたちを見送らねばならないのですか。

 私の後ろを歩くものたちへ。私は、あなたたちを見届けてはあげられないのですか。

 

 

安倍の姓名が安倍晴明なら、Iの生命は愛の声明だ。

パラドクスの換言楽園(左右に揺れて踊るやつではないです)

 先日、NF(November Fest)の統一テーマ募集に一案を投じさせていただいた。

題:「自由という非自明な二重パラドクス」。おや?お前らしくもない。お前は「ハッ、つまんねぇ。どうせ無個性な類の京大生がクソつまらんバカ大学生の真似ばっかして~~」とかなんとか冷笑ポジとって、当日も出店の飯が高すぎて食堂でメシ食って帰ってくるタイプじゃん。

 いや、ごもっとも、ごもっともなのだが。昔のテーマってこんな感じね。

で、ここ数年がこれ。

 寒気がする。ぬはいい。第60~64回はひどい。みんなコロナの後遺症で頭回ってなかったのかな。

 皆アホみたいにお題を投げるから、投票の時には必然的に結構な数の案を見ることになる。選ばれなくてもいい。冷やかしに来た京大生の視界の端に映った文章が、良心と矜持との間のような部分にチクッと刺さってくれたら嬉しいと思って、以下の案を投げました。

題:「自由という非自明な二重パラドクス」

趣意文:

京大は「自由」の学風であるーーそう言われて久しい。
実際卒業式・入試などをみれば、京大名物仮装・タテカンなど確かに一見「自由」に見える。
しかし、私には彼らが真に表現したいことがあって活動しているようには見えない。
毎年の恒例だから・目立ちたいからという俗物が大半であろうし、そもそも真に訴えたいことなど持っていない、明確な自我を持たず身体だけ大人のうつけ者ばかりが目立っている。

自由とは何か。
1つのパラドキシカルな面は、自由を「どのような状態も許されること」、つまりは「万能性」と読みかえた時に生じる。
例えば、「自由でない状態になる自由」というのは存在するのか?それは「A∧¬A」ではないのか。万能関数Φと同じく、自由とは計算不可能な、非自明なものだ。
京大生が享受し、誇る「自由」は今や地の底にまで凋落した。他ならぬ京大生の手によって。 
ネットミームを楽に踏襲するだけのテーマには皆飽きているのではないか?
今こそ、我々は、我々の求める自由をその内面に問いかけ、それを実現しようでは無いか。
もう1つの自由のパラドキシカルな面は、このテーマが統一テーマとなった時に提示しよう。

 

 んで、まぁ投票は終わり、「無限の才能、略して無能。」というなんとも無難な、大学生らしくて素晴らしい題になり。趣意文も「みんな才能があっても発揮できる場所があるとは限らないから、折角だしNFで発揮しよう!」という大変ペラくて正しい素晴らしい文章だった。

 それから数か月、まぁそんなもんだよねー。と思っていたのだが(正直記憶の端っこに埋もれていた)。とあるデザイナーから、もう1つのパラドキシカルな面を教えてください。恣意性の話ですか?と鋭いツッコミをお受けした。ここで美学が試される。「テーマになったら提示しよう」と言ったものを、選ばれなかったのにボロンするのは如何なものか。

一方、「二重」パラドクスと題しつつ世に出ているのが一つだけというのは下巻の存在しない上巻と同じ、「片端なる」有様ではないか?

うーん。書くか。色々書いてみたけど結構よくまとまったな。折角だし、これをまとめて「自由という二重パラドクス」と題した一つの文章にして世に送り出そう。それはすべてに独立した(すべてに自由な!)文章であって、それで最低限の恰好はつくだろう。

という経緯です。1340文字の前置き。

 

自由とは何か。
1つのパラドキシカルな面は、自由を「どのような状態も許されること」、つまりは「万能性」と読みかえた時に生じる。例えば「自由でない状態になる自由」というのは存在するのか?それは「A∧¬A」ではないのか。自然数iに対して計算可能な関数を返す、この世の全ての計算可能な関数のリスト万能関数Φ。しかし、ある計算可能な関数に対してiを返す関数は計算不可能である。自由とは計算不可能な、非自明なものだ。
もう一つの非自明な点。それは、我々の思考形態そのものを束縛条件としてとらえた場合、それは自由を妨げる制限であるにも関わらず、我々が自由を認識するために不可欠であるということである。これは、単に言語のレベルでのみ観測できる事象ではない。あらゆる我々の持つ拘束をひとつひとつ取り払ってゆく。そのとき、確実に真なる自由に近づき、そして確実に我々は観念を理解するすべを失ってゆく。そして、単に、制限の濃度はℵ0よりも大きいという推論に基づくならば、このように一つ一つの制限を選択して、それを取り払うという行為は不可能であることも容易に想像できる。
人間性の脱却を図り無限を手に入れようとする行為は、0.9の後ろに9を力の限り書き連ねることと同義だ。それは終わりのない行為で、真の値1にはたどり着けない。そんなことをしなくてもよい。我々は、既に極限的操作の行きつく先としての自由を知っているからである。何故か?現にこの会話の中で、「自由」とは意味を持ってあなたに伝わっているではないか。そこに、何かを、あなたの持つ固有な人間性を、犠牲にする必要はない。元から、観念とは、自由とは、人間だけのものなのだから。あなたは自分のおもう収束先を、謳歌できるのだから。

 

Paradox Paraphrase Paradise. パラパラが流行ったのはもうどれほど前のことだったか。

たまごっち、くちぱっち、集合っ知

たくさんの人の知性を集めると、より優れた知性が登場する

これが集合知という概念の本質である。

一定の集団の中で知識や情報が共有されれば、その集団を構成する個々人では到達不可能な知性が全体として得られる。

、、、ほんまか?複雑なものを簡単に、極端に語ろうとすると矛盾が生じる。この概念には近代的胡散臭さを感じたので少し掘り下げたい。

集合知という概念の成立の鍵を握っているのは、「集団内で情報の交流が十分に行われている」という条件である。10人集まっても、それぞれに交話がなければ一人一人が隔絶されているのと同じだからだ。

この10人〜100人程度の条件では、比較的情報や知性の交換は比較的スムーズに行われる。

ある生徒の色恋沙汰が翌日には学年全員に知れ渡る、そういう状況を考えて貰えばいい。

風呂桶くらいのサイズの容器であれば、インクを垂らせばそれは十分に早い速度で全体に拡散する。

ところが、現代において問題になる、、例えば「日本全体」や「インターネット全体(地球全体)」といったサイズの集団である。こう言った大きな集団において、集合知という概念をそもそも考えることは可能なのか。

象徴的な言葉がある。「界隈」や「インフルエンサー」というやつである。某青いとりぽっぽー(今ではアルファベット1文字になってしまった)を観察していればわかるが、世の中には色々な「界隈」がある。そこには比較的少数のインフルエンサーが存在しており、彼らは似た考えを持つ(厳密には自分なりの考えを必ずしも持っている必要はないので付和雷同している、と言うべきか)多数の人間を従えたクラスタとして存在している。そして異なる「界隈」間では敵対していればまだいい方で、多くの場合ほとんど関わり合いになることがない。

これはユーザーの動きをトラッキングして、興味を持った情報に近しいものを優先的に提供するというSNSのサービス形態も大きな要因であろう。

例えば「反マスク界隈」などというものは典型で、十分に知識が交換されていれば絶対にこのような界隈は存在し得ないはずであるから、やはり集合知のモデルというのは実現しないようである。

人にはそれぞれ思惑がある。加えて、人は自分が信じたい情報を信じる。

風呂桶を超えた浴槽やプールでは、インクはなかなか全体に行き渡らない。日々プールには様々な色のインクが投下され、ある所では澱み、ある所では一色に染まっている。

集合知は、巨大なネットワークに有機的実体として個々のスペックを超越した分かりやすい機能を期待する理論だ。ホーリズムとまでは行かないまでもそういったある種の反デカルト的主張とデカルト的主張の間にふわふわと浮かんでいる。

全く関係はないのだが、たまごっちを風呂場でやっていたら水没させてしまった小学校の同級生がいる。

ゆでたまごっち。

ではまた次回。

 

困ったなぁ、小松菜

自転車の漕ぎ出しとか

ダイエットの一日目とか

球技のサーブとか

青いとりぽっぽーからちょっと離れて最初に書くブログの記事とか

動いていないものを動かそうとすると動摩擦力より大きい静止摩擦力が邪魔するのは世の常なのだが。みゅー。

地に足つかぬ駄洒落しか吐かぬ私には垂直抗力も働いていないと思いたかったが、実際書き出しに困っているという事実を受け止めるとこの親亀山小亀山問題モデルでは説明がつかないようである。

このはてなブログ、お節介にも私のような迷える小羊、つまり話下手にお題を与えてくれているのだが、社会経験希薄な高校生の若造を捕まえて「過去のアルバイト」とはあまりに酷ではなかろうか。

アルバイトをお得意の屁理屈で「労働全般」と読み替えてみても尚何の助けにもならないようである。

そういえば先日、前述の青色ぴーちくランドではそんな言葉の定義ーー狭義/広義を発端に数多の焼き鳥が生成されていたか。マイクラの自動焼鳥製造装置もびっくりの効率である。狭義を協議して広義に抗議するその精神、辞書でも作ってみてはいかがだろう、とG-SHOCKが特産品の片田舎の高校に通う坊主は思うが。

 

成程、はてなブログのお題も存外優秀かもしれない。

自己紹介代わりの初記事もこなしたし、次回は集合知についてでも語ろうか。もう自転車は進み出した。次の記事では「みゅー。」に代わり「みゅーだっしゅ。」とでも言っているだろう。