遍くアネクメーネ

下らぬ言の葉の常緑樹、人類皆きょうだい

たまごっち、くちぱっち、集合っ知

たくさんの人の知性を集めると、より優れた知性が登場する

これが集合知という概念の本質である。

一定の集団の中で知識や情報が共有されれば、その集団を構成する個々人では到達不可能な知性が全体として得られる。

、、、ほんまか?複雑なものを簡単に、極端に語ろうとすると矛盾が生じる。この概念には近代的胡散臭さを感じたので少し掘り下げたい。

集合知という概念の成立の鍵を握っているのは、「集団内で情報の交流が十分に行われている」という条件である。10人集まっても、それぞれに交話がなければ一人一人が隔絶されているのと同じだからだ。

この10人〜100人程度の条件では、比較的情報や知性の交換は比較的スムーズに行われる。

ある生徒の色恋沙汰が翌日には学年全員に知れ渡る、そういう状況を考えて貰えばいい。

風呂桶くらいのサイズの容器であれば、インクを垂らせばそれは十分に早い速度で全体に拡散する。

ところが、現代において問題になる、、例えば「日本全体」や「インターネット全体(地球全体)」といったサイズの集団である。こう言った大きな集団において、集合知という概念をそもそも考えることは可能なのか。

象徴的な言葉がある。「界隈」や「インフルエンサー」というやつである。某青いとりぽっぽー(今ではアルファベット1文字になってしまった)を観察していればわかるが、世の中には色々な「界隈」がある。そこには比較的少数のインフルエンサーが存在しており、彼らは似た考えを持つ(厳密には自分なりの考えを必ずしも持っている必要はないので付和雷同している、と言うべきか)多数の人間を従えたクラスタとして存在している。そして異なる「界隈」間では敵対していればまだいい方で、多くの場合ほとんど関わり合いになることがない。

これはユーザーの動きをトラッキングして、興味を持った情報に近しいものを優先的に提供するというSNSのサービス形態も大きな要因であろう。

例えば「反マスク界隈」などというものは典型で、十分に知識が交換されていれば絶対にこのような界隈は存在し得ないはずであるから、やはり集合知のモデルというのは実現しないようである。

人にはそれぞれ思惑がある。加えて、人は自分が信じたい情報を信じる。

風呂桶を超えた浴槽やプールでは、インクはなかなか全体に行き渡らない。日々プールには様々な色のインクが投下され、ある所では澱み、ある所では一色に染まっている。

集合知は、巨大なネットワークに有機的実体として個々のスペックを超越した分かりやすい機能を期待する理論だ。ホーリズムとまでは行かないまでもそういったある種の反デカルト的主張とデカルト的主張の間にふわふわと浮かんでいる。

全く関係はないのだが、たまごっちを風呂場でやっていたら水没させてしまった小学校の同級生がいる。

ゆでたまごっち。

ではまた次回。

 

困ったなぁ、小松菜

自転車の漕ぎ出しとか

ダイエットの一日目とか

球技のサーブとか

青いとりぽっぽーからちょっと離れて最初に書くブログの記事とか

動いていないものを動かそうとすると動摩擦力より大きい静止摩擦力が邪魔するのは世の常なのだが。みゅー。

地に足つかぬ駄洒落しか吐かぬ私には垂直抗力も働いていないと思いたかったが、実際書き出しに困っているという事実を受け止めるとこの親亀山小亀山問題モデルでは説明がつかないようである。

このはてなブログ、お節介にも私のような迷える小羊、つまり話下手にお題を与えてくれているのだが、社会経験希薄な高校生の若造を捕まえて「過去のアルバイト」とはあまりに酷ではなかろうか。

アルバイトをお得意の屁理屈で「労働全般」と読み替えてみても尚何の助けにもならないようである。

そういえば先日、前述の青色ぴーちくランドではそんな言葉の定義ーー狭義/広義を発端に数多の焼き鳥が生成されていたか。マイクラの自動焼鳥製造装置もびっくりの効率である。狭義を協議して広義に抗議するその精神、辞書でも作ってみてはいかがだろう、とG-SHOCKが特産品の片田舎の高校に通う坊主は思うが。

 

成程、はてなブログのお題も存外優秀かもしれない。

自己紹介代わりの初記事もこなしたし、次回は集合知についてでも語ろうか。もう自転車は進み出した。次の記事では「みゅー。」に代わり「みゅーだっしゅ。」とでも言っているだろう。